夜を返せ
曖昧な明かりの中をきみは走る。
移り変わる景色に意味はない。
安楽椅子の重たさ。暖炉の明かり。
思い出される数々も、今では遠くなってしまった。
きみは走る。走る。
盗まれた夜を取り戻すために。
その時まだきみは
世界がなにでできているのかを知らなかった。
夢だけを見ていた。
手帳の余白は広々としていて、
そこになんでも書き込むことができた。
きみは時々えんぴつでいたずらがきをしていた。
気づいた時には遅かった。
気づいたのはきみだけだった。
きみが走り出したのを大人たちは
目で追うことすらしなかった。
夜が盗まれているときみは叫ばなかったけど、
たとえ訴えても彼らは笑っていただろう。
広がる荒野をきみは走る。
ぬくもりを失った満月が見下ろしている。
きみを遮るものはなにもない。
だが夜の盗人の背中は見えない。
きみは焦る。焦る。
躓き倒れて膝に擦り傷を作り、
手を土で汚したが、
まだ走れないわけではない。
一人で駆け出したことをきみは後悔しない。
だが走り続けて幾昼夜。
この先にいるという確信はあれど、
求めるものにはたどり着かない。
街を通りすぎる前にきみは初めて立ち止まった。
夜が盗まれていると乾いた声で言った。
ここまで話してきみは初めて水を飲んだ。
ぼくは朗読劇の台詞を
右から左に書き写している最中だった。
明日までにこの仕事を終えないといけないんだ。
夜があろうとなかろうと。
でもあなたは話を聞いた。
水を飲み終えたきみは言った。
ぼくは走っている。
すぐ目の前にきみの背中はある。
ペンは書き物机に置いてきた。
走り方はまだなんとなく覚えていた。
すぐに息が上がった。
ぼくがいてもいなくても、
きみが再び走り出すことはわかっていた。
ぼくがきみと共に街を離れたのは、
最初から最後までぼくのひとりよがりだ。
夜を返せ。夜を返せ。
ぼくはもうこちら側の人間だから、
きみの走る先には誰もいないんだと知っている。
夜を盗んだ人なんていない。
でも確かに夜は盗まれてしまったのだ。
それも知っている。
取り戻せるかはわからないけれど。
だから、きみの足が重くなって、
きみの視線が下を向くとき、
ぼくはきみの背中を押すことを誓う。
奪われた夜を取り戻すために。









